8月15日、渋谷にて「この世の果て、数多の終焉」観てきました。
西洋人指揮官の下で戦う現地人兵士に関してですが、その始まりはかなり古く、少数民族を含むインドシナ人のフランス植民地軍への登用は、植民地化された直後の1890年代からすでに始まっており、ベトナム人部隊(一部モンタニヤード含む)は第1次世界大戦の西部戦線にも派遣されています。
映画の題材となった明号作戦では、日本軍への降伏を拒んだ多くの仏軍ベトナム人兵士がフランス人将校と共に中国領に撤退し、中国国民党軍と合流して終戦まで日本軍と戦いました。
さらにその後第1次インドシナ戦争に突入すると、フランスは植民地軍のベトナム人部隊を基にベトナム国軍を発足させると同時に、フランスの情報機関SDECEは現地の反共派住民をベトミン掃討の戦力として活用する特殊作戦を開始し、北部ベトナム人から成る「コマンドス・ノルトベトナム」や、少数民族から成る「GCMA」といった非正規コマンド部隊を組織しました。
そして、このSDECEによる現地人武装計画は、後年アメリカが行ったCIDG計画とまさに瓜二つでなのです。インドシナ戦争当時からアドバイザーとしてこの作戦を目の前で見てきた米国CIAや軍事顧問は、当然ゲリラ掃討戦におけるこの戦法の有効性を政府に報告していたはずであり、アメリカがCIDG計画をあそこまで大々的に発展させられた背景には、フランスSDECEが遺した成功例の存在が大きかったのだろうと僕は考えています。(ただしGCMAに参加したのは主に北部のモンタニャール(タイ族系)であり、CIDGに参加した中部のモンタニャール(デガ)や低地少数民族とは民族が異なります)
長文失礼いたしました。
ベトナムの歴史について、詳細なコメントありがとうございます。インドシナ半島における「帝国主義」の後味の悪さは、支配・被支配の関係、例えばアングロ人vsアジア人という単純な対立構造だけではなく、ベトナム人vs山岳少数民族、vsクメール人…などなど、対立の重層構造にもあるのかなあ(まさに分割統治?)などと感じたりもしています。20世紀は、そこに「左右のイデオロギー」が輻輳して、インドシナ半島に住む人々は、より激烈・過酷な歴史を生きざるを得なかったのかなあと。そんな人々の状況と本邦の「戦後」を思い浮かべながら、8月15日はしみじみしていました。