M-51Parkaに関する2,3の事柄

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映画「RIBEN GUIZU」観て考えました。(番外編)

 昨日、今日と、映画のハシゴ三昧です。早稲田松竹で、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の台湾映画二本立て「風櫃(フンクィ)の少年」「冬冬(トントン)の夏休み」を観たあと、武蔵野プレイスでの自主上映ドキュメンタリー「日本鬼子(リーベン・クィヅ)」を観てきました。続けて今日は庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」です。
 さて、シン・ゴジラについてもいろいろ考えさせられたわけですが、なんといっても心が「ゆさぶられた」のは、「日本鬼子(リーベン・クィヅ)」です。
 昭和戦争期に於ける中国戦線での皇軍兵士の残虐な行いについては、文献などで多少は知っていたわけですが、やはり当時皇軍兵士であった当事者からの生の証言は「インパクト」が違います。証言の撮影は、2001年頃との事ですが、日本軍の軍人であった14人の証言者(現時点で14名のうち存命の方は2名となってしまっているとの由)は、淡々とあるいは人によっては「楽しそう」に当時の話を語ります。監督が撮影するにあたってお願いしたのは、「聞いた話ではなく自分が行ったこと」を話すということでした。
 最初のほうは、農民(何の関係もない)を生きたまま「初年兵」のための「刺突訓練」の標的にしてしまうとか、軍刀の試し切りなどの話でした。医師の軍医時代の「生体演習」(生きたまま手術練習の材料とした)の話もあったりしたのち、後半になるとまた、兵士の証言が続きます。さすがに旧日本軍も婦女子への性的蹂躙は公式には禁止をしていたのですが、現場をコントロールしていません。また、問題が表面化すると話がややこしくなるためかえって犠牲となった女性は殺されてしまいます。なんとも胸の悪くなるような話が続きます。せめて「証言者」が、涙ながら懺悔しながら語っていたのであればこんな気持ちにならなかったのかもしれませんが、あまりに淡々と、あるいはすこし「楽しそうに」語るのでもう、証言者に対して反感と怒りしか湧いてきません。特に最悪なのは古参「6年兵」の兵卒が「若い女性」をやったあと、切り刻んで部隊の糧食に出してしまったエピソードです。事後報告で中隊長(3年兵)に報告するのですが力関係からか黙認です。(証言者は力関係のように説明していましたが、どちらかというと、将校が面倒を恐れて黙殺したというところでしょう。)なるほどこのような証言を知れば、中国農民が日本皇軍の残虐さから「日本鬼子」「東洋鬼」と呼んで恐れおののいたということも胸に落ちます。
 さきの昭和戦争について、戦争「被害」については皆が語ってきました。しかし「戦争の加害」についてはほとんどおおやけに語られてきません。そう言った意味でこのドキュメンタリーに出演し、証言を残してくれた人々は、ある意味「勇気ある人々」と言っていいのかもしれません。
 今を生きる多くの人々にとって、彼らの体験は「特殊な事例」と感じられるかもしれません。しかし彼らにしても、たまたまその時代を生きた普通の人々だったわけです。最初は「刺突」すら恐ろしくてできなかったものが、いったん慣れてしまえばいたって普通に、そのうち残虐なことも残虐と思わずに行えるようになる。あるいは「日本人は偉く、中国人を支配して当然」といったような心性にいとも簡単に転んでしまう。その事が一層恐ろしく思われるのでした。ゲーテ(だっけ?)の格言のように、まさに「盗む機会のなかった者は、自分を正直者と思っている」といったように、そのシチュエーションに放り込まれたときにどれだけ自分を保てるかという事でしょう(もちろんそれは記述者川村自身についてもいえることなのですが)。
 かれらは、一様に証言します。「今から思えばかわいそうな事をしたと思う。だが、そのときは「生意気」と思った(ので殺した)。」「自分だけやらないと仲間はずれにされる。部隊で生きていけない。」と。こういった心理の発露は、いまのこのネット社会や報道でもしばしば見聞きする情景です(自民族を無根拠に優越視するような差別排外主義や、出る杭を許さない同調圧力の強い社会)。
 「日本鬼子(リーベン・クィヅ)」を「ひのもとおにこ」として萌えキャラにするのは良いのですが、ウィキの言うような単なる「侮蔑語」ではなく、その背景と歴史を充分理解したうえで、抑制的に(どの国にもいる「ネト右」「憤青」などを)揶揄するときに使用するのが吉でしょう。

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                  (c)ぼくちん@ROM専気味


追記:証言者は「中帰連」の人々であるという事から(証言を)批判的に捉えるむきもあるようですが、今回の映画に限らず似たような証言はそこそこあるので「中帰連」云々の批判は該当しないのではないかと考えます。
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by poemaquince | 2016-08-30 22:13 | 映画 | Comments(0)

チェ・ドンフン監督、日帝統治下の京城が舞台の映画「暗殺」観てきました。(ネタバレあり?)

 日帝統治下の抗日運動という題材は、個人的にもぐっときてしまうテーマなのですが、いやこの映画、泣きあり笑いありのエンタテイメントで面白い!! 
 例によって新宿シネマートの小さいほうのスクリーンです。午前9時台の上映だからあまりお客さんいないのかなと思っていましたが、日曜だったためかそこそこの入りです。おまけに韓流ファンのひとたちなのか女性も多い。日韓関係が硬直化しているなか、「韓流」も一定程度定着しているといえるのでしょうか?でも、以前と比べた新大久保界隈の凋落をみてしまうと安心もできないわけではあります。 
 さて、物語のプロローグは1911年の京城の事件から始まります。それから、大戦後(光復後)(たしか1947年頃)の「民族反逆者調査委員会」(みたいな名前、正確には忘れた!)のシーンを挟んで、1933年?金九の指導する亡命政権からの暗殺指令が物語の本編につながっていきます。
 満州に展開する抗日パルチザン部隊からは、上官殺しで隔離審査中の女性狙撃兵がリクルートされます。彼女(チョン・ジヒョン扮するアン・オギュン(安玉均?))の火器は赤軍からのものなのか?ながーいモシン・ナガンで、おまけに狙撃兵なのに近視!です(ぐっときます)。
 上海のフランス租界のシーンも泣けます。アン・オギュンは、ホテルミラボーのカフェで生まれて初めてのコーヒーを飲んでいます。横暴に騒ぐ「大陸浪人(日本人のです)」が通報され、カフェにフランス租界の警察が取り締まりにやってきます。あわやのところでアン・オギュンを正体不明の男(ハン・ジョンウ)が機転を利かせて助けたりします。(出会いです!)
 そして、上海の町並みの描写がすばらしい。半分はCGで描き足しているのかもしれませんが、雑然としたモダンさにあふれた雰囲気がでています。また、ソウル(てゆうか京城)の雰囲気も同様にすばらしい。路面電車、日式看板、乗用車、石造りのモダンな建物と木造建築、時代の雰囲気がでています。三越百貨店や「カフェ・アネモネ」のシーンなど、帝国主義の支配は、一面では「都市という文化の近代化」の側面もあったのだなあという事が感じられたりします。そして、ハン・ジョンウ扮するなぞの男は、日本語をネイティブに話せる(物語の設定上)ことから、たぶん日本への留学組という設定なのかもしれません。(1930年代にすでに成人している人物は、その時点ではまだ「徹底した皇民化教育」は受けてはいない世代と思われます。むしろそれ以前に、日本の大学などへ留学し、民族主義あるいは社会主義などの影響を受けた人物という設定だったのではないでしょうか。)
 この映画についてもう一点、指摘しておきたいのは、特定の民族にステレオタイプな役割を押し付けていないということです。この点が、きわめて良質のエンタテイメントとして安心してみていられる重要な条件なのではないかと感じました。もちろんカタキは出てくるのですが、それは日本人に限らず、いわゆる「買弁資本家」的な民族資本家や、対日協力者だったりします(もちろん彼らにも彼らなりの言い分があります)。あるいは、「朝鮮独立」を支持し命をかけて闘争を手伝ったりする日本人(カフェアネモネのバーテン青木さん?だっけ)も登場します。また、光復(解放)後の「民族反逆者裁判」についてもその醜悪さや限界をしっかり描いたりしています。
 活劇あり、萌え系めがねの狙撃手あり、ダブルエージェントの裏切りあり、娘と家族の葛藤あり、結ばれない切ない恋ありのエンタテイメントとして楽しめると同時に、(お話はフィクションではあるのですが)日本/朝鮮近代史の一側面を感じられる映画でもあると言えるでしょう。
 なんといいますか、まるで夭逝してしまった天才漫画家、湊谷夢吉先生の作品、例えば「魔都の群盲」の世界を思い出します。先生が生きていてこの映画を観たらきっと絶賛した(あるいは悔しがった?)かもしれません。
 これから順次国内で公開されるようです。アジア近現代史に興味のある方は是非ご覧いただく事をお勧めします!
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追記:上に記した「帝国主義の支配は、一面では「都市という文化の近代化」の側面もあったのだなあ」というような雑感について、的確な分析をしているHPがありました。ヌルボ・イルボさん?のページです。非常に興味深いので是非ご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/db0983fb268595b0b5b9c6042d02593a
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by poemaquince | 2016-08-22 23:05 | 映画 | Comments(0)

天皇の「お気持ち」発言に対して「日本会議」系御用文化人(?)の反論がひどすぎる件*

 趣味の「軍もの関係」のブログにて、何でこんなこと書いてるんだろと、嫌悪感に苛まれ、あるいは自嘲しながら、それでも危機感に突き動かされてぐだぐだ書いてしまっています(笑)。
 振り返ってみれば、2012年の自民党総裁選で、せめて石破茂が勝っていたらこんな体たらく(のブログ)にならなくてすんでいたのではないかとさえ思えてしまいます。
 日本の(自称)「保守政治家」の皆さんは、なぜか「保守主義」とはほど遠いイデオロギーにより、日本の社会を劣化させ、安全保障をドブに捨て、国益を毀損させています。彼らのいう「保守」とは、一般的には「国家主義」とか「復古主義」とか「歴史修正主義」とか呼ばれる類いのもので、いわゆる「保守主義」とは異質なものでしょう。
 同じく、彼ら(や日本会議系)のいう「日本の伝統」とは、明治政権が「近代化の方便」として創りあげた意匠であり、例えていうなら「浅草ふきやの吊るしのドイツ軍制服(分かりにくい例え(笑))」とか「ロスコのM-51(これならピンと来る?)」とかみたいなものであり、オリジナル(実物)とは全く異なる、ありていに言ってしまえばそんなものは日本の伝統とは似て非なるものということになります。
 さて、今回、明仁(あきひと)天皇があえて「お気持ち」を表明した訳ですが、このことに対するニッカイ(日本会議)系御用文化人の反応がまるで破綻してて、かつ失礼でサイテーです。曰く「お気持ちは良く分かったが、伝統はもっと大事だ(要旨)」と。まあ、ここで持ち出してくるいわゆる「伝統」が、例によって近代に創られた「天皇が帝国の主権者だった時代」の似非「伝統」なわけで、論理としてもどうよというレベルです。そんなことより、象徴天皇制に関してはアレ政権が棚上げした女性宮家の問題など、皇嗣問題を放置した責任を反省することが先決でしょう。
 「アレノミクス」とか称して、大手が潤えばその余剰がトリクルダウン(滴り落ちて)でみんな豊かになるという約束もいつまでたっても滴り落ちてこない(笑)し、日銀なんとかバズーカの金融政策??の足元も見透かされて元の木阿弥になったりしています。おまけに日本製兵器を海外に売って商売の足しにしようとかいう思惑も、イスラエルをパートナーにドローンの共同開発を模索しているとか、安全保障の国益を無視したあまりにスジ悪な案件が進捗したりしています。
 アレ政治家のぬるい哲学と無知から、過去に学ばず未来を見通せず、先人が築いて来た「平和国家」のブランドをあまりに安く売り渡してしまいました。 
 日本の主権者は、景気対策という「ジンギスカン」を食べようとして狗肉を買わされちゃった訳なんだけど、「景気対策」に期待して投票したはずの一票が、自由な社会の首を絞める一票にいとも容易く転化しようとしています。そしてその結果は日本に住むひとりひとりが被る事になるでしょう。
 なんども書きますが、台頭する巨大な「プロ独」帝国(や、首領様のディズマーランド)に対抗するためには、「巨大なハードパワー」(とそれを生み出すための「太陽の帝国」)ではなく、「そこそこのハードパワー」と「寛容で多元的な社会(ソフトパワー)」の組み合わせにしか活路はないのです。
 ところがアレ政権は「歴史修正主義」「復古主義」「国家主義」を振りかざして本来の「保守主義」とは異質の「太陽の帝国」路線を進んでいます。
 今からさかのぼること4年前の2012年が、シンタローの尖閣諸島問題への放火と、アレシンゾーのJM党総裁選の逆転勝利により、黒歴史の最初の分岐点だったと後世の歴史家から回顧されることのないようにマジで願うばかりです。

 中世NIP帝国(だっけ?)の旗だそうです。まさに「太陽の帝国」ってところです。
 追記:「中世ジャップランド」でした。ネット上のgifファイルをコピペさせていただきました。
 意匠の始源は嫌儲のみなさんによるものです。
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by poemaquince | 2016-08-10 02:18 | 安倍辞めろ! | Comments(1)

てゆうかサンダースとならなかった宇都宮健児氏には二重にがっかり

 首都自治政府の領袖(百合子さんのことね)が、特別秘書にコワモテのファシストを任命し、一部のウォッチャーが騒然としたりしています。また、国に目を転ずれば、「有名なファシストおばさん」が防衛大臣に就任し、アレ首相の「国益よりは自分の人気」(中、韓にことさら敵対的に振るまい敵愾心を煽る手法)路線がより一層鮮明になっていたりします。日本社会の「自由」や「人権」がまたひとつ安くなってしまいそうです(ためいき)。
 「自らと異なる文化集団」(国籍、宗教、民族、言語etc)に対して敵意を煽る政治指導者は、ろくなものではありません(もちろん中国や韓国に於いてもそうですし、それをマに受けて喜ぶ主権者もいかがなものかとは思います)。そしてそれは歴史の教訓として、何度でも繰り返されています。ナチ党の事例はもとより、90年代のユーゴ内戦やいまに続く現代中東での不安定化と内戦、あるいは我が国での昭和期戦争の大失敗など枚挙にいとまがありません。
 現在の日本社会において、ふたたび「商売になるから」とか「相手も言っているから」とか「対抗しないとなめられるから」とかいう理由でそういった「敵意をあおる」ヘイト的言説が社会的に容認されつつあります。無定見に繰り返されるその手の言説は、生活にいくらかの不安をかかえる多くの人々のこころを蝕みやすくします。そしてそれは、不測の事態(大規模テロや巨大事故、不測の軍事的衝突など)の発生を契機としてあっという間にアウトブレイクしてしまいます。さいわいにも日本ではいまだ露骨な「ヘイトクライム」が多発するといった状況には陥ってはいません。なんとか持ちこたえている日本社会を誇りに思います(甘いでしょうか?)。このようないままでの(充分とはいえないまでも比較的ましな)「個人が尊重される自由で平和な社会」を将来世代に引き次ぐ責務を日本国憲法は要請しています。
 (少し長いけどとても重要なので憲法条文を引用すると)「第10章 最高法規 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ(たえ)、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 そして現在の政権党の「改正案」では、なんとこの「第97条」がまるまる削除されています。
 「国民の権利」を憎む、その手の発想の政治集団の牛耳る政府のもとに我々は暮らしているという事実は何度でも想起されなければなりません。

 ところで、このような「歴史の分岐点」となる重要な局面において、「戦略的に振る舞う」ことができなかった「政治」家が、上から目線でハフィントンポスト日本版のインタビューに答えています。http://www.huffingtonpost.jp/2016/08/04/utsunomiya-kenji-interview_n_11335252.html
 さきの選挙で鳥越候補に票を一本化するため、立候補をお譲りになった宇都宮さんです。曰く「日本の市民運動はもっと成熟すべき」と。まあ、そっくりご本人にお返ししたいお言葉です。
 インタビューを読むと日共からの支援が当てにできなくなって候補をやむを得ず降りた(降ろされた)ようです。宇都宮さんに対しては、「大局を判断し、自らの事情は措いて大同に就く志(こころざし)の方」であると勘違いしてました。ふたを開けてみれば周知の通り文春砲バッシングに乗じてここぞとばかり鳥越候補を突き放して、溜飲を下げていたようです。不覚にも川村は二週間ちょっと前のブログ(7月14日付)にて宇都宮氏に敬意を表してしまいました。宇都宮健児への敬意についてはこのさい「きっぱり」と撤回いたします(笑)。
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by poemaquince | 2016-08-05 23:35 | 安倍辞めろ! | Comments(0)