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M-51Parkaに関する2,3の事柄

「八紘一宇」の素、読んでみました。

 ヤンキー議員もすなる「八紘一宇」というものを、パーカヲ宅もしてみむとてするなり。
 という訳で、読んでみました。「八紘一宇」の元ネタ。といってもそんな古典の素養も無いのでネットで拾える情報をつぎはぎしてみました。
 主に参照したのは、「神武天皇詔勅謹解」武田祐吉(昭和10年)、「時局関係御詔勅謹解」御詔勅衍義謹纂会 纂(昭和15年)、ウィキペディア各項目、それから国家鮟鱇さんのブログ、青空文庫の津田左右吉論文等です。(特に国家鮟鱇さんの考察は参考になりました。)昭和初期頃から「神武天皇橿原奠都ノ詔」(じんむてんのうかしはらてんとのみことのり)として「帝国」の建国起源を説明するパンフレットに盛んに解説されたりしています。

 その前に、まず確認なのですが、そもそも「日本書紀」に「八紘一宇」という言葉はありません。大正期に田中智学という国粋的な宗教活動家が、日本書紀「神武天皇の建国譚神話」に絡めて造語したものです。それが国家神道と結びつき、「史実」として昭和期の軍国イデオロギー教育に活用されていったというところです。つまり「すめらみことを戴く大日本帝国が他の国を軍事的に支配するのは決して自国の利益のためではなく、その国のためを思って良いことをしているのだ」という理屈です。二千数百年も昔からそう言った美風を持っているのが我々日本人なのだということのようです。(ちなみに日本書紀が編纂されたのは今から千三百年くらい前なのですが、それからさらに千年以上さかのぼった昔のことを書いた記録(笑)ということになっています)
 今からみれば奇怪な理屈も、「それって、違うんじゃね」と心の中で思ってはいても、公然と口にすることが憚られた時代ではあった訳です。
 

 日本書記巻第三、神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条につぎのとおり書かれています。(分かりやすくするため段を分けてます)

 自我東征於茲六年矣。賴以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未清、餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。
 我は東方に遠征して6年になる。天の神の威力を頼りとして、反抗勢力を殲滅した。辺境の地といえども未だ沈静化せず、残徒は未だ勢力を保ってはいるが、中つ国(ヤマト地方)の地に風塵(戦乱)は無い。誠に宜しく皇都を開設し宮殿を計画造営すべし。

 而今運屬此屯蒙、民心朴素、巢棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時。茍有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室而恭臨寶位、以鎮元元。上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。
  しかるに今般未開の土民に巡り合い、民心は素朴であり、巣に棲み穴に住む習俗を常としている。それ天子は(統治の)制度を定め、義(理想)は必ず時勢(実情)に沿うこととする。いやしくも土民に利益があれば、天子の業(統治建設)が妨げられることはない。まず山林を開墾し宮殿を運営し恭しく高御座(たかみくら)で臨場し、以て人々を統治する。上に則ち天の神より国を授けられた徳に応え、下に則ち天孫の正統性を養う心を教化しよう。

 然後兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎。觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。
 そうした後、六合(天、地、東西南北)を統治する都を開き、八紘(四方四隅)をおおう宮殿を為すこともまた良いではないか。かの畝傍山の東南橿原の地を観れば、けだし国の墺区(重要地点)である、ここを治めよう。

 素人がざっくり解釈しただけなので、見当違いもあるかとは思いますので、大目に見てください(専門の方のご指摘大歓迎です)。まあ昭和期の「謹解」も結構アレな方向に引っ張られてますけど。
 当時の公文書は、漢文(つまり中国から輸入された文章)で書かれることが通常でした。海外の最先端文明をしっかり取り入れるところは日本文化の特徴なのだなあとしみじみ感じたりします。
 (追記:「日本文化の特徴」なんかではなく、「異なる文化の接触による先進的文化の流入」はどこにでもみられる現象というツッコミもいえるかもしれません。)


「八紘一宇」の素、読んでみました。_a0164296_214411.jpg


 で、そもそも川村が、「神武奠都詔」を確認するきっかけとなった三原センセーの国会質問です。
三原センセーは、彼女のHPでつぎのように述べています。
http://ameblo.jp/juncomihara/entry-12002793496.html

(以下、三原議員のHP引用/抜粋)
私があえて「八紘一宇」という言葉をつかって、委員会質疑で問題提起を行った意図をお伝えしておきたいと思います。

この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使われたという歴史は理解しています。侵略を正当化したいなどとも思っていません。私は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を広く皆さんにお伝えしたいと考えました。

ご指摘いただいた中にもありましたが、「八紘一宇」という四字熟語そのものは、大正時代に入ってからつくられた言葉であると言われていますが、もともとは神武天皇即位の際の「橿原建都の詔(みことのり)」にそもそもの始まりがあります。
是非、全文をお読みいただきたいと思いますが(「橿原建都の詔」の全文は、末尾に引用させていただきました)、まずは該当部分の抜粋をご覧ください。

「八紘(あめのした)を掩(おお)いて 宇(いえ)と為(せ)んこと 亦可(またよ)からずや」

今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。
(引用おわり)

 というわけで、川村も上述のとおり読んでみたのだけども、もう、どう読んでも<「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神>などということが書かれていないのは明らか。なぜこのような「ニセ歴史」をばらまいて平気なのか?
 今回の質問の本題は、多国籍企業の租税回避の問題だったはずで、グローバル企業が税金逃れをしていることの是非はいったん置くとしても、そのテーマならば、せめて今はやりのトマ・ピケティを引いたほうがよっぽど時流に乗ってるとは思ったんだけどさ。
「八紘一宇」の素、読んでみました。_a0164296_2135659.jpg

追記
アレ政権のボスに媚びを売る末端議員のさもしさは脇に置くとして、「東洋経済」のHPにおいてもどうしようもない珍説を懲りずに発信しています。
http://toyokeizai.net/articles/-/65369
いや、だから古代の政治文書を、近代に恣意的に読み替えて勝手に「スローガン」にしただけの言葉が、なんで「日本の理念」なのか。この恣意的な「理念」のもとに国家主義とファシズムが正統化されてきた歴史について、M議員は、あまりに軽く捉えている(あるいは気づいていない??)のではないか。
論理としても多国籍企業の課税の話とは全くつながらないことについても自覚がなさ過ぎ(っていうか、投票したやつは恥を知れ!!)。
(まあ、程度の低い議員って、アレの方も含めて確かに沢山いるんだけどさ)

おもな参考参照先
神武天皇詔勅謹解 武田祐吉(昭和10年)http://blog.goo.ne.jp/kuonkizuna1601/e/92762e9492cf569e95c677fd378a5db0
時局関係御詔勅謹解 (昭和15年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1026169/39?tocOpened=1
国家鮟鱇さんブログ
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20150322/1426989770
日本歴史の研究に於ける科学的態度(津田左右吉 昭和21年)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001535/files/53738_47831.html
by poemaquince | 2015-03-26 21:23 | アレという国難 | Comments(1)
Commented by John Doe at 2015-03-27 21:55 x
「戸締りよ~じん、火のよ~じん
月に一度は~お~そ~じ~
げつげつ元気な月曜日~♪
人類皆きょ~だい!仲良くしましょう。」
を思い出しました。